2013年2月13日水曜日

アフリカ調査旅行記その2


10時間のフライトを終え、飛行機はザンビアの首都ルサカに到着した。現地時間午前7時。天気は晴れ。8月下旬のザンビアはちょうど乾期の終わり。ルサカの空気はほこりっぽかった。入国審査は滞り無く数分で終わった。手続きは驚く程近代化していて、調査チームは全員指紋を採られた。ザンビアに数回、今回のような研究調査で来た経験のあるAlex Kotrschalによると、2007年に来たときは、指紋採取はおろか、入国審査場と手荷物受け渡し場を仕切る壁すら無く、そこには木製の机が数個あり、入国審査をしていたという。ザンビアは急速に成長しているのだ。

手荷物を受け取り、到着ゲートへ。そこには、今回の調査チームの一人Alex Haywardの旧友Sebと、俺の研究室のポスドクで今回の旅行の大部分を手配したAlex K.の知人、Simonの二人が待っていた。Sebは数十年前にイギリスから荷物一つでザンビアに渡り、ゼロから農場を始めて現地での生活を築き、今はザンビアに帰化しているという変わり物である。出で立ちも、少なく見積もっても5つは穴があいているTシャツに鼻緒が千切れかけたサンダル。皺の間まで日焼けした褐色の肌に髪の毛はイカツいドレッドヘアーと、紛う事なきヒッピースタイルであった。Simonは小柄の黒人で、これから俺らが滞在する事になる宿泊施設で雇われているドライバー。二人の出迎え人と挨拶を交わし、一行は車へ向かった。


車は空港を出て、市街地へ向かった。道中から見える景色は荒涼としていた。雨期には、この木々に豊かな緑の葉が付くという。四季を持つ国々の人は、春夏秋冬、季節の巡りに合わせて一年を生きる。雨期乾期によって一年を定義付けられるこの国の人は、日本人が四季折々の移り変わりに合わせて喜怒哀楽を表現するように、雨期と乾期に特有の感情表現があるのだろうか。



カメラのシャッターを切りながらそんなことを考える中、一行は市街地を目指したが、その足取りは遅々としたものであった。ドライバーのSimonは非常に注意深い人物であった。交差点に差し掛かるたび、向こう数百メートルから車が来ていない事を数回確認してから、ようやく曲がった。何度か確認している間に車が近づき(それでも俺の感覚からすれば余裕で行けるタイミング)、左折を諦めることもしばしばあった。そんな訳で、車は左折の交差点のある度、数分の足止めを食らっていた。ある時、Simonの過度な安全確認にしびれを切らしたAlex K.が、次に来る車まで距離が出来た時に「ヘイSimon、今なら行けるぜ!」と言った。Alex K.のオーストリア訛の英語を上手く聞き取れなかったSimonは、「え、なんだって?」と聞き返した。一行はさらに数分、その交差点で時間を食うはめになった。一行はだまった。



宿泊施設に到着し、荷物の中身を確認してから、飛行機での睡眠不足で眠気が襲っていた調査隊は昼まで仮眠を取る事になった。しかし、あまり眠くなかった俺は宿泊施設のマネージャーである中年のドイツ人夫婦と受付の部屋で会話をした。この宿泊施設はGossner Missionと言いMissionの名前から推測されるよう、キリスト教使節団の宿として建設された施設であった。現在は宣教師より、現地でボランティア活動に従事する人や、俺らのような研究者の滞在場所として使われているらしい。彼らも宣教目的なのかと訪ねると、最初はそうだったが今では違う。アフリカに必要なのは神ではなく食べ物、20年間アフリカに居てそれがわかった。そう答えた彼らの目には深い悲しみと太い強さが共存したような、不思議な色の光が宿っていた。アフリカの雄大で力強い自然、その美しさに心から感動したというストーリーには心が躍った。ザンビアが雨期に入り、その年初めての雨が降った時、地面から猛スピードで草が生え、数時間のうちに荒れ地だった一面が緑に覆われるという。その光景を初めて見たときの感動はずっと忘れられない。あなたもいつか、その瞬間を見れると良いわね。そういう話を聞きながら俺は、サバンナにゆっくり沈む赤い夕陽を見ながら、ただ心を真っ白にするような、そんな静寂の一時が人生の片隅にあったら、さぞ豊かな心になれるやろうな、と思った。宣教師としてアフリカに来たということは敬虔なクリスチャンやったに違いない。その彼らが信仰の限界を感じてなお前向きに、力強く歩いて行けるのはアフリカの雄大な自然に触れたからなのかもしれない。



ルサカでの滞在は3日間の予定。それから、ザンビア北端の街、ムプルングに向かう18時間のバスに乗る。ザンビアで2番目に小さな街ムプルングで手に入るものは限られているから、3日間は買い物をする計画であった。仮眠を済ませた一行は、近所のレストランで昼食を取った後に、タクシーを呼んで街の中心部へと向かった。

ルサカで揃えなければならない物は主に3つあった。携帯電話、エタノール、そしてホルマリンである。携帯電話は何の問題も無い。ザンビアも入国審査に指紋採取があるくらいには発展している。特に、携帯電話は先進国での流通にかかった時間とは比べ物にならないくらいの速度でアフリカを含む発展途上国で流通した事で有名だ。都心部のショッピングモールに行けば安々と手に入る事が明らかであった。エタノールは消毒用に使われるものなので薬局で手に入る。問題はホルマリンであった。事前情報によると、ルサカ市内のある薬品店で買えるということであったが、スウェーデンから電話をかけて問い合わせてみると、「それは取り扱っておりません」の一点張りであった。最悪現地でホルマリンが手に入らなかった場合のために、粉末のパラホルムアルデヒドを持ち、現地で作る準備もしていたが、これは出来ればやりたくなかった。パラホルムアルデヒドは粉末状のホルムアルデヒド(ホルマリンは37%ホルムアルデヒドの通称)であるが、難容性で水質をアルカリ性にしてやらないと溶けない。そこで水質を水酸化ナトリウムでアルカリ性にして、撹拌しながら加熱して溶かす。phを計測する試験紙も準備していたので、この方法を使って、最悪の場合でもホルマリンを“調理”する準備はできていたのである。しかし、アルカリ性にした溶液では保存した組織が痛んでしまうので水質を中性に戻してやらないといけない。この最後のステップに必要な強酸の水溶液を作る薬品で、空輸送可能な薬品が見つからなかったため、ホルマリンを調理する場合は現地でレモンか酢酸を調達してphの調整をすることにしていた。しかし、弱酸のレモンや酢酸をどのくらい加えれば溶液が中性になるのか、事前に調べる時間が無いままザンビアに来てしまっていた。そんな不安要素を抱えた作戦にサンプルの運命を委ねるのは絶対にごめんであった。そう言う訳で、ホルマリンを探す2日に渡る死闘が始まったのであった。

2013年2月11日月曜日

アフリカ調査旅行記その1




2012年8月22日の午後、僕はストックホルムからロンドンのヒースロー空港へ飛んだ。その日、遠い昔から僕が夢見た、アフリカへの調査旅行へ行く日が遂にやって来た。長年思い描いて来た夢が叶う瞬間と言うのは、不思議な気持ちです。ゴールに辿り着いた達成感と、これまで自分の鋳型として目指して来た偉人達と同じように自分がなれるかどうかの不安、これが同時に来るのだ。今回の調査にはアフリカでの調査経験のあるポスドクのAlexander Kotrschalが様々な手配をしてくれたとは言え、十分に準備できているか不安があった。空輸出来ない化学薬品を現地で調達する予定だったが、それが本当に現地にあるかも確定できないままスウェーデンを発った。こんなことで採集が捗るのかと、考えれば不安に思う事はいくらでもあった。しかし、最近細かい事をくよくよ考えないことにしている僕は、ロンドンからザンビアの首都ルサカに向かう飛行機の中で、横にアメリカンサイズの黒人女性がドッサリ座った事も露気にせず、買ったばかりの防水デジカメをいじりながらわくわくしていた。


ロンドンからルサカへの飛行時間は10時間。夜中に起きて窓の外をみると、真っ暗な闇の中の一部分に、小さく灯る街の光が見えた。飛行経路の案内表示から推測すると、それはケニアの首都ナイロビらしかった。僕はついにアフリカ大陸の上を飛んでいた。俺は、アフリカって場所は疫病・紛争・猛獣の蔓延る暗黒の土地、という感じがしていた。それは事実その通りでもあるが、一方でそこには人が住んでいて、経済があり、旅行者が居る場所も中にはある。アフリカでの日々の生活の風景というのは、どんなものか。いつだったか僕は、祖母から第二次世界大戦当時の話を聞いて、戦争中にものどかな毎日の営みはあったんやということを知った。そのイメージは戦後の、戦争に対するプロパガンダも多いに含まれた刷り込み情報によってなかった物かのようにされていたけれど、実際は違ったんだと、生きた記憶の大切さを感じた。今回の旅も、そういう重大な経験を僕の人生にもたらしてくれるのかと期待が膨らんだ。

そんなことを思いながら、ふと通路側を向くと、例の黒人女性が二の腕を僕の席へ完全にハミ出した状態で熟睡していた。俺は、トイレに少し行きたいのを我慢して、その二の腕をまくら代わりにして寝ることにした。