アフリカの社会が二層構造となっていることは、アパルトヘイトの歴史を語る必要も無く、明白である。白人と権力を持った黒人とで構成された社会と、それ以外の社会。ザンビア社会も例外ではない。この夜我々が向かったステーキレストランは、明らかに前者に属する場所であった。恰幅の良いスーツ姿の巨大な黒人男性が笑いながらワインを楽しんでいる。そんな様子に気を取られていると、大柄の白人男性が黒人のボーイに渡されたスーツを一瞥もせずにもぎ取り、私の肩にドカりとぶつかりながら満足気に出て行った。そのボーイと目が合って、私は軽く挨拶したが、返事は無く、逆に逃げるように目をそらされた。失礼な人もいるから、あまり気にしないように、そんな気持ちで向けた私の視線がこんな形で帰ってくる経験は久々のことで少々戸惑った。しかしこれこそが、外国人としてアフリカに居ると言う事なのかもしれなかった。私は心のどこかがどうしようもなくざわつくのを感じた。
その晩の食事は気持ちの良いスタートでは無かったが、提供される料理は量も質も大満足の内容であった。食事をしながら、Sebがどのような経緯でザンビアへ辿り着いたのか、という出で立ちの話から、アフリカで気をつける必要のある野生生物にどう対処すれば良いか、今回の調査がどのような目的か等を話した。この時食卓を囲んでいた7人は全て国籍の違う人たちであった。背景が違うと出てくる話題、それに対する反応、何から何まで違っていておもしろい。しかし、新しい情報が多いだけ、会話には多くのエネルギーを消費する。腹を満たすと同時に、私は長旅の疲れがどっと押し寄せて来るのを感じた。それもそのはず、ロンドンのヒースロー空港を出て以来、一日以上まともな睡眠はとっていなかった。食事を済ませ、ロッジに戻り、部屋に戻ると同時にシャワーも浴びずにベッドに飛び込んだ。こうして、慌ただしいザンビア調査旅行の一日目が終わった。
2日目は部屋の外で水浴びをする、ロッジの管理人の子供達であろう10歳前後の子供達の声で目が覚めた。私もシャワーを浴び、外へ出てみると外は太陽の燦々と照り輝く、気持ちの良い快晴であった。ロッジの向こう側ではAlex K.とSeverineが朝食の準備を始めている。コーヒーの香ばしい香りと焼きたてのパンの香りが鼻に届く。世の中には、「幸せとは何か」をテーマとした分厚い本が沢山出版されている。しかし、幸せとは思いのほか単純な、例えばこの日の朝に私が感じた、気持ちの良い天気に料理の良い香り、そういうところにあるのではないかと思わせるような、心地の良いの瞬間がそこにはあった。
Alex K.は、オーストリア出身のポスドク。父親も著名な魚の研究者であった生え抜きの研究者である。Alex K.はドクター時代にタンガニイカ湖のシクリッドの一種を材料にしており、今回の調査旅行は、彼のザンビアにおける豊富な経験とネットワークを頼りに計画が始まった。彼のパートナーSeverinはスイス人の博士課程学生。可愛らしいドイツ語訛りの英語を話す、おしとやかでとてもチャーミングな女性だ。彼らはAlex K.がドクター時代に企画した調査旅行において、研究者とその研究アシスタントとして出会ったという。今回の調査旅行も、研究はもちろんであるが、その機会を利用してのエキゾチックな休暇という側面も兼ねていた。こういうどこか「浮ついた」研究風景は、日本人としてはどこか憚られる気持ちになるものだが、ヨーロッパでは全くもって普通のことであって、フィールドシーズンの色恋沙汰に関するゴシップというのは誰もが必ず一つや二つは大爆笑確定級のネタを持つ、飲み会の席で最も盛り上がる話題の一つだ。
おいしい朝食の席を囲みながら、Alex K.とSeverine、そして同じロッジに宿泊しているスウェーデン人のドクターで今回の研究アシスタントJosefinaの間で何でも無い会話に花が咲いた。フィールドシーズンの成功というのは、その時のメンバー間の相性に大きく依存する。この日の朝の会話の弾み具合から、今回のチームはうまく行きそうな予感がした。最後に、その日の買い物に関する計画を改めて確認し、部屋に戻って支度をする。一行は呼んでいたタクシーに飛び乗り、二日目の買い物が始まった。
こんにちは。坪井助仁(Masahito Tsuboi)と申します。 私は現在スウェーデンのウプサラ大学で博士課程に在籍し、進化生物学の研究をしています。 欧州の大学での学生生活を通じて得られる経験と情報をお届けします。 それでは、お楽しみ下さい!
2013年6月14日金曜日
2013年6月9日日曜日
アフリカ調査旅行記その3
ルサカ市内中心部にあるショッピングモールへ到着した一行はまず携帯電話を購入しに、ザンビアの大手通信会社、Airtelの販売ブースに入った。思った通りプリペイドの携帯とそのSIMカードは広く流通しており、旅行者であるという事情を説明するまでもなく、二つ返事で望みの品を購入する事が出来た。SIMカードを携帯に挿し、Airtelの電波を受信している事を確認した後、電話を掛け合う。電話は問題無くかかり、携帯探しは早くも終了した。
続いては、エタノールとホルマリン。調査隊はエタノール組とホルマリン組の二手に分かれた。私は今のところ手がかり無しのホルマリンのグループへ。ザンビア渡航前に連絡を入れていた薬品店では、取り扱っていないということであったが、なにせ片言の*1英語を使っての電話越しの対応である。電話での対応の雰囲気からも、その場しのぎの答えをしたことも十分にありそうであることが感じ取られていた。なにより、そこを除いて他に手がかりは本当に何一つなかった。我々は、その薬品店の住所と地図をタクシーのドライバーに見せ、薬品店を目指した。
薬品店は、街のはずれ、カイロ通りに続く小道にあった。大きな鉄製の門は、一見したところ、大きな工場の入り口のようだ。門にはLusaka Chemist Ltd.と書いてある。ここで間違いない。タクシーのクラクションをならすと、門扉が開く。門番の男は2、3、タクシーの運転手に無愛想な態度で質問をし、頷いた後に車を中へ通した。ところで、ザンビアは旧宗主国が英国であり、同じく英国の植民地だったインドからの移民が多い。街の至る所にインドの地名にちなんだ通りの名前があるのには、そういう訳がある。
門の中へ入るとすぐに駐車場、そしてオフィスへの入り口が見えた。その向こうにはやはり大きな工場らしき物が見えた。おそらくそこで薬品を作っているのだろうか。オフィスへ入ると黒人男性が出迎えた。私は手短に事情を説明して、ホルマリンが無いか訪ねた。やはり電話で聞いたときと同じ対応で、無いの一点張りであった。ホルマリンが手に入りそうな場所はあるかと聞いてみると、わからないが、他の薬品店ならあるかもしれないということで彼の知っている薬品店の場所を教えてもらった。こんな風に書くと物事はとてもスムーズに行ったかのように思えるが、実際は全く違った。会話の合間に仲間同士の掛け合いや、電話の対応、パソコンのチェックなどありとあらゆる間の手が入った。茹だるような暑さと埃っぽい空気にそもそも頭の働かない中、答えを急がず、気長に質問を繰り返すのは本当に骨が折れた。もう日は暮れかかっていた。
二手に分かれた一行は再び合流した。エタノール組は、エタノールを扱う薬品店を見つけたが、正規料金で売るには紹介が居る。割高料金であれば売ってやるということで、割高料金も払えないではなかったが、ひとまず引き上げたということであった。いつだったか、政治における汚職の度合いの世界ランクを見たが、アフリカの国は軒並み下位に低迷していた。そういう事情はおそらく政治に限らず、ザンビアではごく普通のことなのだろうか。そうして一日目の買い物は終わった。一行は、ホルマリンはおろか、簡単に手に入ると踏んでいたエタノールも手に入れることができなかった。日の傾いたルサカの街は通勤であろうか、行き交う車が目立った。その光景は、子供の頃から心の中で描いてきたアフリカの像とはかけ離れた、身近な通勤ラッシュだった。背景には、ザンビアの埃っぽい空気で霞んだ夕陽が見えた。生まれて初めて見た、アフリカの夕陽であった。
ロッジに帰って来た一行は、明くる日の計画、そして調査地であるザンビア北端に位置する漁村、ムプルングへ向かう日程について話合った後、Alex H.の旧友、Sebお気に入りのステーキレストランへ向かうこととなった。腹ぺこの一行はSebの運転する車に乗り、レストランへ向かった。
*1
ザンビアは旧宗主国がイギリスなので、公用語は英語である。しかし、現地のアフリカ人は外国人を相手とする場合を除き、基本的に現地語を使う。公的には、英語はザンビア人にとって英語は母国語であるはずだが、実際のところは彼らの英語は片言に近い。
続いては、エタノールとホルマリン。調査隊はエタノール組とホルマリン組の二手に分かれた。私は今のところ手がかり無しのホルマリンのグループへ。ザンビア渡航前に連絡を入れていた薬品店では、取り扱っていないということであったが、なにせ片言の*1英語を使っての電話越しの対応である。電話での対応の雰囲気からも、その場しのぎの答えをしたことも十分にありそうであることが感じ取られていた。なにより、そこを除いて他に手がかりは本当に何一つなかった。我々は、その薬品店の住所と地図をタクシーのドライバーに見せ、薬品店を目指した。
薬品店は、街のはずれ、カイロ通りに続く小道にあった。大きな鉄製の門は、一見したところ、大きな工場の入り口のようだ。門にはLusaka Chemist Ltd.と書いてある。ここで間違いない。タクシーのクラクションをならすと、門扉が開く。門番の男は2、3、タクシーの運転手に無愛想な態度で質問をし、頷いた後に車を中へ通した。ところで、ザンビアは旧宗主国が英国であり、同じく英国の植民地だったインドからの移民が多い。街の至る所にインドの地名にちなんだ通りの名前があるのには、そういう訳がある。
門の中へ入るとすぐに駐車場、そしてオフィスへの入り口が見えた。その向こうにはやはり大きな工場らしき物が見えた。おそらくそこで薬品を作っているのだろうか。オフィスへ入ると黒人男性が出迎えた。私は手短に事情を説明して、ホルマリンが無いか訪ねた。やはり電話で聞いたときと同じ対応で、無いの一点張りであった。ホルマリンが手に入りそうな場所はあるかと聞いてみると、わからないが、他の薬品店ならあるかもしれないということで彼の知っている薬品店の場所を教えてもらった。こんな風に書くと物事はとてもスムーズに行ったかのように思えるが、実際は全く違った。会話の合間に仲間同士の掛け合いや、電話の対応、パソコンのチェックなどありとあらゆる間の手が入った。茹だるような暑さと埃っぽい空気にそもそも頭の働かない中、答えを急がず、気長に質問を繰り返すのは本当に骨が折れた。もう日は暮れかかっていた。
二手に分かれた一行は再び合流した。エタノール組は、エタノールを扱う薬品店を見つけたが、正規料金で売るには紹介が居る。割高料金であれば売ってやるということで、割高料金も払えないではなかったが、ひとまず引き上げたということであった。いつだったか、政治における汚職の度合いの世界ランクを見たが、アフリカの国は軒並み下位に低迷していた。そういう事情はおそらく政治に限らず、ザンビアではごく普通のことなのだろうか。そうして一日目の買い物は終わった。一行は、ホルマリンはおろか、簡単に手に入ると踏んでいたエタノールも手に入れることができなかった。日の傾いたルサカの街は通勤であろうか、行き交う車が目立った。その光景は、子供の頃から心の中で描いてきたアフリカの像とはかけ離れた、身近な通勤ラッシュだった。背景には、ザンビアの埃っぽい空気で霞んだ夕陽が見えた。生まれて初めて見た、アフリカの夕陽であった。
ロッジに帰って来た一行は、明くる日の計画、そして調査地であるザンビア北端に位置する漁村、ムプルングへ向かう日程について話合った後、Alex H.の旧友、Sebお気に入りのステーキレストランへ向かうこととなった。腹ぺこの一行はSebの運転する車に乗り、レストランへ向かった。
*1
ザンビアは旧宗主国がイギリスなので、公用語は英語である。しかし、現地のアフリカ人は外国人を相手とする場合を除き、基本的に現地語を使う。公的には、英語はザンビア人にとって英語は母国語であるはずだが、実際のところは彼らの英語は片言に近い。
2013年2月13日水曜日
アフリカ調査旅行記その2
10時間のフライトを終え、飛行機はザンビアの首都ルサカに到着した。現地時間午前7時。天気は晴れ。8月下旬のザンビアはちょうど乾期の終わり。ルサカの空気はほこりっぽかった。入国審査は滞り無く数分で終わった。手続きは驚く程近代化していて、調査チームは全員指紋を採られた。ザンビアに数回、今回のような研究調査で来た経験のあるAlex Kotrschalによると、2007年に来たときは、指紋採取はおろか、入国審査場と手荷物受け渡し場を仕切る壁すら無く、そこには木製の机が数個あり、入国審査をしていたという。ザンビアは急速に成長しているのだ。
手荷物を受け取り、到着ゲートへ。そこには、今回の調査チームの一人Alex Haywardの旧友Sebと、俺の研究室のポスドクで今回の旅行の大部分を手配したAlex K.の知人、Simonの二人が待っていた。Sebは数十年前にイギリスから荷物一つでザンビアに渡り、ゼロから農場を始めて現地での生活を築き、今はザンビアに帰化しているという変わり物である。出で立ちも、少なく見積もっても5つは穴があいているTシャツに鼻緒が千切れかけたサンダル。皺の間まで日焼けした褐色の肌に髪の毛はイカツいドレッドヘアーと、紛う事なきヒッピースタイルであった。Simonは小柄の黒人で、これから俺らが滞在する事になる宿泊施設で雇われているドライバー。二人の出迎え人と挨拶を交わし、一行は車へ向かった。
車は空港を出て、市街地へ向かった。道中から見える景色は荒涼としていた。雨期には、この木々に豊かな緑の葉が付くという。四季を持つ国々の人は、春夏秋冬、季節の巡りに合わせて一年を生きる。雨期乾期によって一年を定義付けられるこの国の人は、日本人が四季折々の移り変わりに合わせて喜怒哀楽を表現するように、雨期と乾期に特有の感情表現があるのだろうか。
カメラのシャッターを切りながらそんなことを考える中、一行は市街地を目指したが、その足取りは遅々としたものであった。ドライバーのSimonは非常に注意深い人物であった。交差点に差し掛かるたび、向こう数百メートルから車が来ていない事を数回確認してから、ようやく曲がった。何度か確認している間に車が近づき(それでも俺の感覚からすれば余裕で行けるタイミング)、左折を諦めることもしばしばあった。そんな訳で、車は左折の交差点のある度、数分の足止めを食らっていた。ある時、Simonの過度な安全確認にしびれを切らしたAlex K.が、次に来る車まで距離が出来た時に「ヘイSimon、今なら行けるぜ!」と言った。Alex K.のオーストリア訛の英語を上手く聞き取れなかったSimonは、「え、なんだって?」と聞き返した。一行はさらに数分、その交差点で時間を食うはめになった。一行はだまった。
宿泊施設に到着し、荷物の中身を確認してから、飛行機での睡眠不足で眠気が襲っていた調査隊は昼まで仮眠を取る事になった。しかし、あまり眠くなかった俺は宿泊施設のマネージャーである中年のドイツ人夫婦と受付の部屋で会話をした。この宿泊施設はGossner Missionと言い、Missionの名前から推測されるよう、キリスト教使節団の宿として建設された施設であった。現在は宣教師より、現地でボランティア活動に従事する人や、俺らのような研究者の滞在場所として使われているらしい。彼らも宣教目的なのかと訪ねると、最初はそうだったが今では違う。アフリカに必要なのは神ではなく食べ物、20年間アフリカに居てそれがわかった。そう答えた彼らの目には深い悲しみと太い強さが共存したような、不思議な色の光が宿っていた。アフリカの雄大で力強い自然、その美しさに心から感動したというストーリーには心が躍った。ザンビアが雨期に入り、その年初めての雨が降った時、地面から猛スピードで草が生え、数時間のうちに荒れ地だった一面が緑に覆われるという。その光景を初めて見たときの感動はずっと忘れられない。あなたもいつか、その瞬間を見れると良いわね。そういう話を聞きながら俺は、サバンナにゆっくり沈む赤い夕陽を見ながら、ただ心を真っ白にするような、そんな静寂の一時が人生の片隅にあったら、さぞ豊かな心になれるやろうな、と思った。宣教師としてアフリカに来たということは敬虔なクリスチャンやったに違いない。その彼らが信仰の限界を感じてなお前向きに、力強く歩いて行けるのはアフリカの雄大な自然に触れたからなのかもしれない。
ルサカでの滞在は3日間の予定。それから、ザンビア北端の街、ムプルングに向かう18時間のバスに乗る。ザンビアで2番目に小さな街ムプルングで手に入るものは限られているから、3日間は買い物をする計画であった。仮眠を済ませた一行は、近所のレストランで昼食を取った後に、タクシーを呼んで街の中心部へと向かった。
ルサカで揃えなければならない物は主に3つあった。携帯電話、エタノール、そしてホルマリンである。携帯電話は何の問題も無い。ザンビアも入国審査に指紋採取があるくらいには発展している。特に、携帯電話は先進国での流通にかかった時間とは比べ物にならないくらいの速度でアフリカを含む発展途上国で流通した事で有名だ。都心部のショッピングモールに行けば安々と手に入る事が明らかであった。エタノールは消毒用に使われるものなので薬局で手に入る。問題はホルマリンであった。事前情報によると、ルサカ市内のある薬品店で買えるということであったが、スウェーデンから電話をかけて問い合わせてみると、「それは取り扱っておりません」の一点張りであった。最悪現地でホルマリンが手に入らなかった場合のために、粉末のパラホルムアルデヒドを持ち、現地で作る準備もしていたが、これは出来ればやりたくなかった。パラホルムアルデヒドは粉末状のホルムアルデヒド(ホルマリンは37%ホルムアルデヒドの通称)であるが、難容性で水質をアルカリ性にしてやらないと溶けない。そこで水質を水酸化ナトリウムでアルカリ性にして、撹拌しながら加熱して溶かす。phを計測する試験紙も準備していたので、この方法を使って、最悪の場合でもホルマリンを“調理”する準備はできていたのである。しかし、アルカリ性にした溶液では保存した組織が痛んでしまうので水質を中性に戻してやらないといけない。この最後のステップに必要な強酸の水溶液を作る薬品で、空輸送可能な薬品が見つからなかったため、ホルマリンを調理する場合は現地でレモンか酢酸を調達してphの調整をすることにしていた。しかし、弱酸のレモンや酢酸をどのくらい加えれば溶液が中性になるのか、事前に調べる時間が無いままザンビアに来てしまっていた。そんな不安要素を抱えた作戦にサンプルの運命を委ねるのは絶対にごめんであった。そう言う訳で、ホルマリンを探す2日に渡る死闘が始まったのであった。
2013年2月11日月曜日
アフリカ調査旅行記その1
2012年8月22日の午後、僕はストックホルムからロンドンのヒースロー空港へ飛んだ。その日、遠い昔から僕が夢見た、アフリカへの調査旅行へ行く日が遂にやって来た。長年思い描いて来た夢が叶う瞬間と言うのは、不思議な気持ちです。ゴールに辿り着いた達成感と、これまで自分の鋳型として目指して来た偉人達と同じように自分がなれるかどうかの不安、これが同時に来るのだ。今回の調査にはアフリカでの調査経験のあるポスドクのAlexander Kotrschalが様々な手配をしてくれたとは言え、十分に準備できているか不安があった。空輸出来ない化学薬品を現地で調達する予定だったが、それが本当に現地にあるかも確定できないままスウェーデンを発った。こんなことで採集が捗るのかと、考えれば不安に思う事はいくらでもあった。しかし、最近細かい事をくよくよ考えないことにしている僕は、ロンドンからザンビアの首都ルサカに向かう飛行機の中で、横にアメリカンサイズの黒人女性がドッサリ座った事も露気にせず、買ったばかりの防水デジカメをいじりながらわくわくしていた。
ロンドンからルサカへの飛行時間は10時間。夜中に起きて窓の外をみると、真っ暗な闇の中の一部分に、小さく灯る街の光が見えた。飛行経路の案内表示から推測すると、それはケニアの首都ナイロビらしかった。僕はついにアフリカ大陸の上を飛んでいた。俺は、アフリカって場所は疫病・紛争・猛獣の蔓延る暗黒の土地、という感じがしていた。それは事実その通りでもあるが、一方でそこには人が住んでいて、経済があり、旅行者が居る場所も中にはある。アフリカでの日々の生活の風景というのは、どんなものか。いつだったか僕は、祖母から第二次世界大戦当時の話を聞いて、戦争中にものどかな毎日の営みはあったんやということを知った。そのイメージは戦後の、戦争に対するプロパガンダも多いに含まれた刷り込み情報によってなかった物かのようにされていたけれど、実際は違ったんだと、生きた記憶の大切さを感じた。今回の旅も、そういう重大な経験を僕の人生にもたらしてくれるのかと期待が膨らんだ。
そんなことを思いながら、ふと通路側を向くと、例の黒人女性が二の腕を僕の席へ完全にハミ出した状態で熟睡していた。俺は、トイレに少し行きたいのを我慢して、その二の腕をまくら代わりにして寝ることにした。
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