2014年12月6日土曜日

日本とスウェーデンの博士課程比較 ②

こんにちは

前回のポストでは、日本とスウェーデンの博士課程という制度の中で、特に研究者の置かれる経済状況と社会的立場が違うことにについてクローズアップしました。スウェーデンでは経済的基盤が整ったことが博士課程入学に必要な条件の一つであり、その結果博士課程研究者は給与所得者=納税者なので各種社会保証の恩恵も受けられるということを紹介しました。これらの違いは博士課程のあり方に重要な影響を及ぼすファクターですが、教育内容と言うより制度の違いでした。それでは、肝心の教育内容について今 回は紹介したいと思います。

講義

日本の博士課程とスウェーデンの博士課程の一番の違いは、スウェーデンでは講義を受けて単位を取得する必要があるが、日本では一般的に博士課程の学生を対象とした講義は無いという点でしょう。僕がウプサラ大学で受けた講義には

  • Modern statistics for biological sciences (生物学者のための近代統計学)
  • Multivariate methods for ecologists(生態学者のための多変量解析)
  • Academic teacher training course (大学の教育トレーニングコース)
  • Research ethics in science and technology(科学技術倫理)
  • Scientific writing and publishing(科学論文の執筆と出版)

等があります。どれも週に2回〜3回、各2時間程度の講義が一ヶ月程続く日本の大学では集中講義と呼ばれる形式の講義です。このうちAcademic teacher training courseとResearch ethics in science and technologyはウプサラ大学で博士課程を取るために必須の単位となっています。

また、Multivariate methods for ecologistsはウプサラ大学ではなくスウェーデン農業科学大学(SLU)が主催の講義でした。大学の垣根を越えて講義に参加する事は極めて一般的で、人気の講義には遠路はるばる受講にやって来る学生が居ることも稀ではありません。これを可能にしているのが欧州では一般的な大学間単位互換制度です。この制度によって、講義の主催大学と関わらず取得単位が卒業単位として認められるのです。

一方で、日本の博士課程には講義がありません。制度上は卒業に単位取得が必要となっているので、週に1度くらいある研究室の検討会(所謂ゼミ)に参加することで単位を取るという形になっているのが一般的です。つまり、特定の分野に関して専門家が教鞭を取って教える、という形の教育インプットは一般的にはありません。その代わり、自分の研究に必要な知識を自分で修得できるための自由な時間は与えられています。

まとめると、日本の博士課程は学生が修士までの教育課程で十分な基礎知識を身につけている事を前提に、自主性に重きを置いた教育システムである一方、スウェーデンの博士課程は学生が予め持っている知識を前提とせず、研究に必要な知識と技術を修得することも含めて教育するシステムである、と言う事ができるでしょう。

学位審査

次に、日本の博士課程と大きく異なっているのは学位審査のプロセスです。

日本の大学では学部内の教員からなる審査委員会が論文の審査を行い、それに続いて博士論文発表会が行われます。発表会は一般公開されていて、その様子は審査委員会で無くても見る事ができます。発表後、短い質疑応答があります。審査委員会からの質疑応答に続いて一般聴衆からの質疑応答を受付け、その後委員会で合否を決定する、というプロセスです。

スウェーデンでは学外(一般的に国外)の関連分野専門家からopponent(論敵)を指名します。審査委員会はopponent、学内から2人、学外(スウェーデン国内)から2人の 関連分野教員から生る5人編成です。博士論文はこれら5人の審査員が内容を吟味し、その後博士論文発表会があります。博士論文発表会は論文著者が15分程度の短い発表を行い、それに続きopponentが関連分野における論文の意義や新規性について紹介します。その後、長い時は3時間にもなるopponentと論文著者の質疑応答があります。Opponentが質疑応答を終えたあと、残り4人の審査員が質問する機会が与えられますが一般的にこれは極めて短時間で終わります。最後に聴衆からの質問が受け付けられ、審査員達で論文の質・質疑応答の質にもとづき学位授与の合否が決定されます。 この一連の行程はPhD defenseと呼ばれ、重厚な質疑応答は4年にわたる奮闘の日々を終えるに相応しい格式高い儀式です。その後、opponentを含む学部の教員、同僚を招いてパーティーがあります。

この学位審査のあり方の違いに関しては僕はスウェーデン方式がシステムとして圧倒的に優れていると思います。特に、学外・国外から専門家を呼んで審査委員会を結成するというのは博士論文を審査するにあたってこれ以上無い 方法の一つでしょう。ここで始まるコミュニケーションは大学間協力・国際協力の一歩にもなるのです。科学において長い歴史と伝統を持つスウェーデンならではのシステムであり、日本の博士課程審査もこういう方向へ行けば良いなと思います。ただし、スウェーデンの格式高い学位審査も合否に関しては「形式」である意味合いが強く、学位審査まで進んで学位が授与されなかったケースはほとんど無いと言います。しかし、関連分野の一流研究者達を招いて行うこの審査、特に質疑応答の質は噂となって世界中に響き渡り、発表者の評判を決定付けます。大学・国の垣根を超えて論文発表会を公表することによって、発表者がその本質を偽ることが出来ない仕組みとなっているのです。全く、実に巧みなシステムです。

まとめ

今回は日本とスウェーデンの博士課程の教育内容、特に講義と学位審査の違いについてリポートしました。学位審査は、科学研究の歴史の古いスウェーデンならではの格式と知恵を感じます。日本の高等教育は歴史が浅く、まだシステムとして荒削りなところが沢山あります。少子高齢化の進む中、日本の大学が生き残るには外国、特に近隣のアジア諸国から学生をリクルートすることが必須ですが、より優れたシステムと研究環境を持つ欧米の大学が相手では、地理的・文化的な親近性を加味しても日本の大学が一流の人材に選ばれる可能性は低いでしょう。国際大学ランキングといったうわべだけの評価を多少上下する小手先だけの調整 でなく、根本的に高等教育のあり方を見直すことが緊急の課題と思います。

2014年9月28日日曜日

日本とスウェーデンの博士課程比較 ①


こんにちは。スウェーデンのウプサラ大学進化生物学研究センターで博士課程をしている坪井と申します。海外で博士課程を取る日本人はまだ多くありません。このブログは、日々の研究生活から見える様々な研究者事情を日本のそれと比較しながらリポートすることを一つの目的としています。更新頻度がとても遅いのですが、暇な時に読んでコメント頂けたら嬉しいです。

今日は日本とスウェーデンの博士課程の比較です。どちらの国でも高等教育の中で最終段階の教育として位置づけられる博士課程ですが、位置づけは同じでも日本とスウェーデンで博士課程の内容は驚く程違います。その違いを生み出す決定的な要素とは何なのでしょうか。今日のポストでは日瑞の博士課程の違いに焦点を当ててリポートします(注:瑞は漢字でスウェーデンのことです)

まず、博士号という学位の定義について見てみましょう。

博士(Doctor)の学位は、基本的に最上位の学位として位置づけられている。通常は、大学など高等教育機関や学位授与機関における修士及びそれと同等の学力があると認められた者が、大学院の博士課程あるいは博士後期課程を修了することで取得出来る。また、論文審査により高度な研究能力があると認定された者にも授与されることがある。どちらの場合にも、独自性のある研究論文や著書を提出し、博士論文審査に合格する事が条件となっている。
Wikipediaより

このように、博士号は、高度な研究遂行能力があると認定された者の証です。Wikipediaの英語ページ、スウェーデン語ページにも同じ内容が書いてあります。しかし、その学位を認定する課程である高等教育機関(一般的に大学院)の教育課程は、日瑞で驚く程違っています。その違いを生む原因は様々ですが、根本的に違いとして今回は博士課程の経済状況の違いについて焦点を当てます。

スウェーデンの博士課程学生は給料を貰っているのに対し、日本の博士課程は基本的に無給です。スウェーデンでは研究室に博士課程の学生を養う経済的余裕ができた場合に博士課程の学生を雇うという形で博士課程の学生がリクルートされますので、博士課程の学生であるということは給与をもらう立場である事と同義です。

資料1 博士課程の募集要項


資料1は2014年9月11日にウプサララ大学のメーリングリストで回って来た、Queens Mary University of LondonDr. Christophe Eizaguirreによる博士課程の募集要項です。上から順番に開始日、研究費、学費の支給及び3年間の給与があること、研究内容、応募資格、判断基準、応募方法、問い合わせ先が記載されています。これはイギリスでの募集ですが、スウェーデンのものと同様です。すなわち、欧州では博士課程が給与を払って研究をする労働者として募集されていることがわかります。収入は募集先国の規定や指導教官の経済状況に左右されますが、スウェーデンでは所得税を始めとする各種税金を天引きされた後の収入が初年度で月額18万円程度、その後中間報告等をクリアする事で年々増額し、最終年度で月額26万円程度となります。







これと比較して、日本の博士課程は研究費、学費は自腹且つ給与ゼロが基本です。唯一欧州の博士課程と比較し得るのが学振特別研究員DC1及びDC2という制度での支援を受けて博士課程を修めている研究員です。これらの研究員は月額20万に加え、年間別途150万円までの研究費が交付されます。ただしDC1DC2も、学費は基本的に支払わなければならないようです。しかしこのDC1DC2は狭き門で、優秀な業績を修士の段階で持っているか、巧みな申請書作成技術かいずれかが無ければ通りません。平成17年度の博士課程修了者数は全国で約1万5千人。一方、DC1DC2の採用者数は毎年2千人未満です。すなわち、平成17年度、全国で約1万3千人以上が無給且つ学費を支払いつつ博士課程をしていました。

欧州では、博士課程の学生は資料1にあるように研究者から雇用される形で募集されるか、博士課程に該当する期間分(スウェーデンでは4年)の研究資金を自ら調達することで博士課程の研究を始めることが認められるシステムとなっています。いずれにせよ、経済基盤ありきで始まる欧州の博士課程と経済基盤無しでもなんとなく始められてしまう日本の博士課程。これがまず日瑞の博士課程を取り巻く環境の違いを生む大きな原因の一つです。

給与の有無と関連して、日本とスウェーデンの博士課程で根本的に違うのは博士課程学生の社会的立場です。日本で博士課程学生の立場が“学生”である一方、スウェーデンでは博士課程の研究者は“労働者”として扱われます。それゆえ、国の法律で定められている労働者の各種権利;健康保険制度、有給休暇、産休育休制度等の対象となります。これは欧州での制度上、博士課程の研究者が給与所得者でなければ始められないという制約の結果、全ての博士課程研究者がすなわち納税者でもあることの帰結でもあります。こういう事情があるので、スウェーデンで博士課程をしている学生はどんどん子供を作ります。僕と同時期に進化生物学研究センターで博士課程を始めた学生の中だけでも既に3人の女性が子供を妊娠・出産しました。

まとめ

今日は日本とスウェーデンの博士課程の違いの中で、特に経済状況の違いと社会的立場の違いに焦点を当ててリポートしました。システム上経済的基盤の整った上で課程を始める欧州と、経済的基盤が無くても望めば始められる日本。無給かつ学費を支払いながら研究も行い、それと同時に結婚や子づくり等も年齢的に視野に入ってくる日本の一般的な博士課程の過酷さは尋常ではありません。スウェーデンではそういう過酷なキャリアパスはそもそもシステム上選択肢に含まれていません。博士課程=給与所得者=納税者=各種社会保障の対象、という流れから、博士課程の研究者は本業に集中しながら、プライベートの充実も望めば達成できるでしょう。私は、日本もまず“親の経済援助で無い経済的基盤を持つこと”を博士課程開始の審査基準としてはどうかと思います。そうすれば博士課程卒業者の数は減りますが、内容は断然充実するでしょう。

次回は博士課程での教育内容についてリポートする予定にしています。

ではまた。

2014年4月15日火曜日

STAP細胞記者会見を見て〜雑感〜

みなさまご無沙汰しております。

スウェーデン留学中の坪井です。あまりにご無沙汰すぎていつしか連載企画であるはずのアフリカ調査旅行がもうほぼ丸2年前のこととなってしまっています。それでも続きはすこしづつ書いているのでいずれ完結させます(宣言)。

さて、今日は日本の世間を騒がせているというSTAP細胞の問題について、4月9日にあった小保方晴子さんの2時間半にわたる記者会見を飛ばし飛ばしですが見たのでその雑感を。責任の所在、今後の動向等に関して色々騒がれているようですが、理系大学院の教育環境を知った上でスウェーデンで高等教育を受けている私としては、お茶の間のゴシップとしてではなく、高等教育のあり方そのものが問われている重大な問題として考えさせられるやりとりがいくつもありました。そんな中で思ったことを今回のポストでは書きたいと思います。

まず、この記者会見は苛立たしかったの一言。原発事故の時の東京電力の記者会見でも感じましたが、これぞまさしく『暖簾に腕押し』。応答することの難しい質問もたくさんありましたが、記者会見全体を通して、本質的な質疑が応答された瞬間は全く一瞬も無かったと思います。言いたいことを言って、あとは謝罪するのみ。記者会見のシナリオを書いている人物(達)の思惑が東電の時と同じか、あるいは日本語という言語の質疑応答機能に重大な制約があるか、そういうことでしか説明できないように思いました。こういうところに行くことが義務の報道陣も大変ですね。質問には応答しないくせに、『君、失礼だね。所属と名前を言い賜へ。』などと言われた拍子には僕なら血管がはち切れてしまうと思います。

それはそうと、本題です。今回の騒動は日本の高等教育(*)に蔓延る極めて重要な問題を浮き彫りにしていると思います。小保方さんは記者会見中何度も『研究の進め方も自己流で…』と繰り返しました。特別彼女を弁護するつもりはありませんが、この発言は端的に、彼女が博士課程の研究を行った研究室(早稲田大学でしたか)に、学生に科学研究のイロハを指導する体制は無かったということを示しています。そして僕の経験では、これは、早稲田大学に限らず日本全国津々浦々あらゆるレベルの高等教育機関で分け隔てなく存在する状況であろうと僕は推察しています。つまり、日本の高等教育機関は、教育という名は冠しているにも関わらず教育は(ほとんど)しておらず、学生を放し飼いするか、あるいは奴隷的にこき使っているということなのです。現場を知らない人はびっくりするかもしれませんが、これが恐るべき事実なのです。

*高等教育の広義の定義は大学入学以降の全ての教育ですが、僕はこの記事では高等教育をサイエンスと直接関わりのある狭義の高等教育、修士課程(マスター)と博士課程(ドクター)と定義しています。

これは日本の大学成立の歴史、少子化による大学の経済収支の悪化のしわ寄せ等色々な難問が寄せ集まって起きている社会現象であり、大学で教えている教授の先生方が義務を果たさず甘い汁を吸っている悪代官であるということは本当に、全く、決して無いことをお忘れなきようよろしくお願いします(いや、まぁおそらく探せばそういう人も居ますがそんな人どこにだって少しは居ます)。大学職員、特に教授職というのは聞こえは良いけれど実際は恐るべき量の事務仕事に忙殺されて科学研究など遥か彼方に忘れ去るか、学生を奴隷としてこき使うか、あるいは超人的キャパシティによってそのトレードオフを乗り越えるかいずれかしかないという板挟みにあるのです。この忙殺か・搾取かあるいは石仮面で人間を超えて…の究極の選択で、多くの野心的かつ才能にあふれた研究者は搾取を選ぶのです。ピペド(ピペット奴隷)などけしからんという研究部外者の気持ちは痛いほどわかりますが、止むに止まれぬ現実という面も知っておいて頂きたいと思います

数年前、高学歴ワーキングプア(水月昭道)というタイトルの本があったことをみなさんは覚えていますか。これは、教育課程上最高の学位である博士号を取った、長い教育を受けて優秀であるはずの人材が就職できず、できたとしても金銭的に恵まれない人生を送るということを書いた本で、僕が修士1年くらいの時だったでしょうか、当時大学ではよく耳にする言葉でした。その当時は、経済的なプアという意味でなんとか止まっていた日本の高等教育に蔓延る病巣は数年を経て、サイエンスの本質に染み入ってその根本的な正当性・信頼性を犯しつつある段階に来ている。今回の事件はその恐ろしい現状を端的に示していると私は思っています。

これからサイエンスの道に進むことを(一応)目指している私は、このことを真摯に受け止めております。日本のサイエンスそのものが廃れ行くかもしれない過渡期に私はサイエンスを始めようとしているからです。あるいはもう手遅れかもしれませんが、この現状を変えるためには、私は高等教育のありかたそのものを根本的に改革するしかないと思っています。スウェーデンの高等教育システムを参考に思いつく具体的なアイデアは以下の通りです。

  • 高等教育機関は、教育機関からの給与、あるいは自ら勝ち取った競争的な給与型奨学金・財団資金のどちらかで3年程度生活できる保証が無ければば博士課程学生を採用してはいけない
  • 博士課程の学生に研究者として最低限必要なノウハウの教育をつけることを義務化する。研究者として最低限必要なノウハウとは、『科学倫理』『哲学』『著作権』『統計学』『英語科学論文の書き方』『科学論文査読法』『プレゼンテーション法』等である。
  • 博士課程は『学生』ではなく『雇用者』として扱う。『雇用者』に適応される権限を博士課程の学生は持つ代わり、雇用は進行状況により年度ごとに更新で、進行のあまりに芳しくない場合、高等教育機関は期限前に博士課程学生を解雇できる。

他にも色々ありますが、基本的にはこの3つでしょうか。これらが実現すれば、博士課程を取ったということは高等教育機関に於いて施されるカリキュラムを通過したという証明になります。そうすれば、STAP細胞のような出来事があった時に、当事者本人が責任を追求されるか、高等教育機関に責任があるか、すぐにわかります。もし教育機関が必要な教育を施していたにも関わらずある研究者が研究の倫理に反する行いをしたのであれば、それは当事者の責任です。もし、当事者に科学者として必要な教育が施されるべきところであるはずが、十分な教育がなされていない場合は、関連教育機関が義務の不履行として責任を追及されることになります。どちらの場合でも、本人あるいは教育機関はあらたな事件を起こす可能性を減らす何らかの対策を取る、ということになります。前向きな進展が期待できるのです。

ところが現状は高等教育機関が科学者を一人前に育てる義務を負っているという認識も無ければその事実も皆無なので、責任の所在のありようもありません。記者会見は暖簾に腕押し。まるで小学校のホームルームで窓ガラスを割った子供の弁明のようなていたらくになってしまうのであります。

最後に、You Tubeか何かでちらりと見た程度の低いバラエティ番組で、日本の研究が世界から評価が下がる恐れがとか云々言ってましたがそんなこと絶対にないのでご心配なく。ウプサラで僕の周りにいる研究者をはじめ、まともな人は今回の騒動はもうサイエンスとしては未発見として決着のついたことで、あとのことは研究者の興味外と正当に理解していますから。残りはもはやお茶の間を適度に賑わわせるくらいのことでしょうか。そんな程度の低いことにサイエンスが持ち出されて、サイエンスが滞って本当に情けなく、申し訳なく思いますと記者会見で泣きながら言った小保方晴子さんの言葉、彼女の真心でしょうから、皆まともに聞いてあげてはどうかと思います。日本の世間は本当に失敗に厳しい。何のための厳しさなのか。その厳しさは生産的なのか。僕には全く理解できません。