2016年2月3日水曜日

ウプサラ大学での博士論文発表会

みなさんお久しぶりです。いかがお過ごしだったでしょうか。私は前回のポスト以来、博士論文の執筆に向けて邁進しておりました。ブログの更新については本当に申し訳なかったのですが、これから私の日々の研究活動の広報としてもこのブログを有効活用していきたいと思っていますので宜しくお願いします。

さて、先日ウプサラ大学博士課程の卒業セレモニーに参加し、名実ともにウプサラでの学業生活に区切りがつきました。セレモニーそのものもそれはそれは素晴らしいものでしたが、今日はその前に昨年10月29日にあった私の博士課程の集大成を発表する場、論文発表会について報告しようと思います。

大学の理系学部で修士課程以降の学位を取得していない人にとって、博士論文発表会とはどのように聞こえるでしょうか?おそらく、ほとんどの人にとってそれは存在していることすら知られておらず、内容やその価値についてもコメントのしようもない、というところでは無いかと思われます。そこで今日のポストではまず博士論文発表会とは何かを簡単にまとめ、それから私の経験したウプサラ大学での発表会について、日本におけるそれと比較しながら報告します。

博士論文発表会:学者の卵の晴れ舞台(?)

博士論文発表会(あるいは公聴会)とは、博士課程の学生が学位(博士号)を授与されるために必要なステップの一つです。一般的に発表会が行われる前に学生が博士論文を提出し、これが発表会を実際に行って最終的な学位審査にかけられるに相応しいと認められた場合に行われます。すなわち、これは博士号最後を飾る、苦難と驚きに満ちた研究生活の積み重ねを公に見てもらう重要な舞台なのです。この発表会の直後に学位授与の可否が言い渡されるため、発表会を行うというのは本当に重大な出来事です。しかし、この発表会そのものの内容で研究者の全てが見出されるわけではありません。むしろ、研究者の務めは科学の発展に貢献することですから、執筆された論文の内容によって学位授与可否が事実上決まるというのが実情です。すなわち、多くの国では発表会を行うに相応しい論文であるかの審査を通ることがより困難であり、発表会そのものは通るのが通例です。最後の発表会が重要な舞台であることに変わりはありませんが、研究活動の本質に沿って考えてこのような実情は理にかなっていると私は思います。

日本:『形』としての発表会

日本の博士論文取得に至る過程では学部ないし研究科それぞれが『通例』として定めている基準にクリアすることが重要な要素となります。この基準とは、例えば『英語学術雑誌に論文を最低2本載せる』というようなものが一般的で、ここにimpact factor(学術雑誌のレベルを示す一つの指標)や国際学会での発表などがこの基準のクリアに関わっている場合もあるようです。これらの基準をクリアした学生が博士論文を執筆し、発表会を行って学位を授与される、という流れです。

この流れの中で、日本に置いて論文発表会の位置付けは低く、ほとんど『形』という認識が一般的です。発表会にかける大学や研究室の労力は小さく、発表会に参加して演者に対する質問を準備する論敵は学内、多くの場合学部内くらいの狭い範囲から選出されます。そのため、論敵自身も発表内容を良く理解できないということがしばしばあり、発表会は実際のところあまり盛り上がりません。発表会に家族が来るというようなこともあまり聞きませんし、狭い世界で起きている集まりですから博士号というものが発表会を経て与えられるということも一般的には認識されていないかと思います。前述の通り、研究者はプレゼンターであるよりもまずはリサーチャーであるべきですから、このような位置付けはある意味で前述した研究世界の実情を忠実に表現していると言えるかも知れません。

スウェーデン:『儀式』としての発表会

スウェーデンでも学位授与に向かうプロセスは日本と同じです。また、発表会へ進む許可を得るための審査がより厳しく、発表会自体はほぼ通例として通るという点も同じです。しかしながら、発表会のあり方は極めて対照的です。

まず、発表会の論敵は基本的に国外の専門家から選ばれます。人選は発表者と指導教官が相談しながら行い、個人的に打診を行います。論敵の渡航費・滞在中経費は大学が出し、渡航距離等に制約は基本的にありません。論文を適切に批判できるかどうかというのが最大の焦点というわけです。そして、発表会に至るまでの間に『nailing』と呼ばれる興味深い儀式が行われます。


写真1:壁に論文を打ち付ける私。周りにもこれまでに
nailingされた論文がたくさんあります。
『nailing』が行われるのは、博士論文が印刷されてから発表会が行われるまでの間です。出来立てホヤホヤの論文冊子を持って、忙しくしている同僚たちのオフィスを回って人を集めます。そして廊下を進んだ先に存在する、とある黒板の前で何を一体するのかというと、なんと論文冊子を壁に釘で打ち付けるのです(写真1)。打ち終わるとまた廊下を辿ってぞろぞろと帰り、準備していたシャンパンを皆で開けてお菓子やおつまみを食べる、という儀式です。ちなみに写真で紹介しているnailingは実は簡易版で、歴史的にnailingが行われてきたのは大学の講堂内の一角です。講堂でのnailingではウプサラ大で何百年もこのためだけに使われてきたという喩所正しき伝説のハンマーを渡され、それで叩いてnailingをするというすごい仕様です笑。

さて、この儀式を終えていよいよ発表会当日です。ウプサラ大学での博士論文発表会は大学のウェブサイトで内容と日時が公開されており、大学内外全ての人に開かれています。ある日時にある分野の発表が重なって訊きに来れないということが無いようとの配慮から、発表会は分野あたり1日2講演(朝1回、昼過ぎ1回)までと決まっています。発表の流れは、発表者が15分程度の短い公演を行い、次に論敵が発表される博士論文のより大きな文脈における位置付けや、発表者の研究における新規性について短い発表を行います。その後、長い時には3時間にも及ぶ質疑応答の時間がやってきます。質問は多岐に渡り、発表者が研究者へ進むことに決めたきっかけから論文で記述されている方法について重箱の隅を突くものまでありとあらゆる質疑応答が繰り広げられます。前述の通り、ここでの質疑応答の内容だけで学位が授与されなかったということは極めて稀です。しかし、ここでどれだけ巧みに質疑応答できたかというのはその場にいる全ての人に明らかとなるのです。この内容は書面には決して現れませんが、論敵が海外から招待されていますから海を越えて噂となっていくのです。論敵の質疑応答が終わると国内の審査員(男女混合の3人構成)が質問を与える機会があり、最後に聴衆からの質問が受け付けられて、ようやく発表会は終了します。その後まもなく国内の審査員、学部長と論敵の間で審議がなされます。その間に発表者は同僚の準備していたスナックとシャンパンを聴衆とともに楽しみ、その集団の中で結果発表、そして乾杯という流れで学位授与となります。面白いことに、私の発表会には大学と関係無い、ただ興味を持って聞きに来てくれていた男性がおり、シャンパンを片手におめでとう、楽しかったよと言われました。見応えのある一連の発表会は審査というだけでなく、ウプサラのインテリが楽しむショーとしての一面もあるのです。

こうして長い発表会の1日が終わります(さらにここからパーティがあるのですが、それについてはまたいずれ機会があれば)。

まとめ

本項最初に書いたよう、スウェーデンにおいても日本と同様に発表内容で学位授与の可否が決定されることは稀です。しかし、論敵を国外から選定すること、nailing、発表会が一般公開されていることや日時と分野への配慮など、重要な点はしっかりと押さえた上で様々な遊びのある、実に見事な儀式として機能している点が日本と対照的といえるでしょう。歴史の古いウプサラ大学でこそ為せる、深く濃厚な味わいがあるのです。nailingや伝説のハンマー、日時への配慮などが一体どれほど機能的な意味を持っているでしょうか?実際ほとんど無いでしょう。しかし、こういう細かいしきたりの一つ一つが、Philosophy of Doctorという学位に付随すべきnobility、威厳、そして名誉を若いPh.D.に感じさせるのです。このような伝統を守り、伝えてきた先人たちの努力の積み重ねが今日の科学を作っているのですから。

今日のポストではスウェーデン・ウプサラ大学での博士論文発表会の『儀式性』に焦点を当ててリポートしました。この伝統は長い歴史が故のものなので、日本がこういう風習にならうと言っても難しいと思います。しかし、ウプサラ大学も5−6世紀前は出来て間もない大学だったわけですから、日本のシステムも今始めて6世紀後にまで続く何かを探して実践してみるのが良いのかもしれません。

2014年12月6日土曜日

日本とスウェーデンの博士課程比較 ②

こんにちは

前回のポストでは、日本とスウェーデンの博士課程という制度の中で、特に研究者の置かれる経済状況と社会的立場が違うことにについてクローズアップしました。スウェーデンでは経済的基盤が整ったことが博士課程入学に必要な条件の一つであり、その結果博士課程研究者は給与所得者=納税者なので各種社会保証の恩恵も受けられるということを紹介しました。これらの違いは博士課程のあり方に重要な影響を及ぼすファクターですが、教育内容と言うより制度の違いでした。それでは、肝心の教育内容について今 回は紹介したいと思います。

講義

日本の博士課程とスウェーデンの博士課程の一番の違いは、スウェーデンでは講義を受けて単位を取得する必要があるが、日本では一般的に博士課程の学生を対象とした講義は無いという点でしょう。僕がウプサラ大学で受けた講義には

  • Modern statistics for biological sciences (生物学者のための近代統計学)
  • Multivariate methods for ecologists(生態学者のための多変量解析)
  • Academic teacher training course (大学の教育トレーニングコース)
  • Research ethics in science and technology(科学技術倫理)
  • Scientific writing and publishing(科学論文の執筆と出版)

等があります。どれも週に2回〜3回、各2時間程度の講義が一ヶ月程続く日本の大学では集中講義と呼ばれる形式の講義です。このうちAcademic teacher training courseとResearch ethics in science and technologyはウプサラ大学で博士課程を取るために必須の単位となっています。

また、Multivariate methods for ecologistsはウプサラ大学ではなくスウェーデン農業科学大学(SLU)が主催の講義でした。大学の垣根を越えて講義に参加する事は極めて一般的で、人気の講義には遠路はるばる受講にやって来る学生が居ることも稀ではありません。これを可能にしているのが欧州では一般的な大学間単位互換制度です。この制度によって、講義の主催大学と関わらず取得単位が卒業単位として認められるのです。

一方で、日本の博士課程には講義がありません。制度上は卒業に単位取得が必要となっているので、週に1度くらいある研究室の検討会(所謂ゼミ)に参加することで単位を取るという形になっているのが一般的です。つまり、特定の分野に関して専門家が教鞭を取って教える、という形の教育インプットは一般的にはありません。その代わり、自分の研究に必要な知識を自分で修得できるための自由な時間は与えられています。

まとめると、日本の博士課程は学生が修士までの教育課程で十分な基礎知識を身につけている事を前提に、自主性に重きを置いた教育システムである一方、スウェーデンの博士課程は学生が予め持っている知識を前提とせず、研究に必要な知識と技術を修得することも含めて教育するシステムである、と言う事ができるでしょう。

学位審査

次に、日本の博士課程と大きく異なっているのは学位審査のプロセスです。

日本の大学では学部内の教員からなる審査委員会が論文の審査を行い、それに続いて博士論文発表会が行われます。発表会は一般公開されていて、その様子は審査委員会で無くても見る事ができます。発表後、短い質疑応答があります。審査委員会からの質疑応答に続いて一般聴衆からの質疑応答を受付け、その後委員会で合否を決定する、というプロセスです。

スウェーデンでは学外(一般的に国外)の関連分野専門家からopponent(論敵)を指名します。審査委員会はopponent、学内から2人、学外(スウェーデン国内)から2人の 関連分野教員から生る5人編成です。博士論文はこれら5人の審査員が内容を吟味し、その後博士論文発表会があります。博士論文発表会は論文著者が15分程度の短い発表を行い、それに続きopponentが関連分野における論文の意義や新規性について紹介します。その後、長い時は3時間にもなるopponentと論文著者の質疑応答があります。Opponentが質疑応答を終えたあと、残り4人の審査員が質問する機会が与えられますが一般的にこれは極めて短時間で終わります。最後に聴衆からの質問が受け付けられ、審査員達で論文の質・質疑応答の質にもとづき学位授与の合否が決定されます。 この一連の行程はPhD defenseと呼ばれ、重厚な質疑応答は4年にわたる奮闘の日々を終えるに相応しい格式高い儀式です。その後、opponentを含む学部の教員、同僚を招いてパーティーがあります。

この学位審査のあり方の違いに関しては僕はスウェーデン方式がシステムとして圧倒的に優れていると思います。特に、学外・国外から専門家を呼んで審査委員会を結成するというのは博士論文を審査するにあたってこれ以上無い 方法の一つでしょう。ここで始まるコミュニケーションは大学間協力・国際協力の一歩にもなるのです。科学において長い歴史と伝統を持つスウェーデンならではのシステムであり、日本の博士課程審査もこういう方向へ行けば良いなと思います。ただし、スウェーデンの格式高い学位審査も合否に関しては「形式」である意味合いが強く、学位審査まで進んで学位が授与されなかったケースはほとんど無いと言います。しかし、関連分野の一流研究者達を招いて行うこの審査、特に質疑応答の質は噂となって世界中に響き渡り、発表者の評判を決定付けます。大学・国の垣根を超えて論文発表会を公表することによって、発表者がその本質を偽ることが出来ない仕組みとなっているのです。全く、実に巧みなシステムです。

まとめ

今回は日本とスウェーデンの博士課程の教育内容、特に講義と学位審査の違いについてリポートしました。学位審査は、科学研究の歴史の古いスウェーデンならではの格式と知恵を感じます。日本の高等教育は歴史が浅く、まだシステムとして荒削りなところが沢山あります。少子高齢化の進む中、日本の大学が生き残るには外国、特に近隣のアジア諸国から学生をリクルートすることが必須ですが、より優れたシステムと研究環境を持つ欧米の大学が相手では、地理的・文化的な親近性を加味しても日本の大学が一流の人材に選ばれる可能性は低いでしょう。国際大学ランキングといったうわべだけの評価を多少上下する小手先だけの調整 でなく、根本的に高等教育のあり方を見直すことが緊急の課題と思います。

2014年9月28日日曜日

日本とスウェーデンの博士課程比較 ①


こんにちは。スウェーデンのウプサラ大学進化生物学研究センターで博士課程をしている坪井と申します。海外で博士課程を取る日本人はまだ多くありません。このブログは、日々の研究生活から見える様々な研究者事情を日本のそれと比較しながらリポートすることを一つの目的としています。更新頻度がとても遅いのですが、暇な時に読んでコメント頂けたら嬉しいです。

今日は日本とスウェーデンの博士課程の比較です。どちらの国でも高等教育の中で最終段階の教育として位置づけられる博士課程ですが、位置づけは同じでも日本とスウェーデンで博士課程の内容は驚く程違います。その違いを生み出す決定的な要素とは何なのでしょうか。今日のポストでは日瑞の博士課程の違いに焦点を当ててリポートします(注:瑞は漢字でスウェーデンのことです)

まず、博士号という学位の定義について見てみましょう。

博士(Doctor)の学位は、基本的に最上位の学位として位置づけられている。通常は、大学など高等教育機関や学位授与機関における修士及びそれと同等の学力があると認められた者が、大学院の博士課程あるいは博士後期課程を修了することで取得出来る。また、論文審査により高度な研究能力があると認定された者にも授与されることがある。どちらの場合にも、独自性のある研究論文や著書を提出し、博士論文審査に合格する事が条件となっている。
Wikipediaより

このように、博士号は、高度な研究遂行能力があると認定された者の証です。Wikipediaの英語ページ、スウェーデン語ページにも同じ内容が書いてあります。しかし、その学位を認定する課程である高等教育機関(一般的に大学院)の教育課程は、日瑞で驚く程違っています。その違いを生む原因は様々ですが、根本的に違いとして今回は博士課程の経済状況の違いについて焦点を当てます。

スウェーデンの博士課程学生は給料を貰っているのに対し、日本の博士課程は基本的に無給です。スウェーデンでは研究室に博士課程の学生を養う経済的余裕ができた場合に博士課程の学生を雇うという形で博士課程の学生がリクルートされますので、博士課程の学生であるということは給与をもらう立場である事と同義です。

資料1 博士課程の募集要項


資料1は2014年9月11日にウプサララ大学のメーリングリストで回って来た、Queens Mary University of LondonDr. Christophe Eizaguirreによる博士課程の募集要項です。上から順番に開始日、研究費、学費の支給及び3年間の給与があること、研究内容、応募資格、判断基準、応募方法、問い合わせ先が記載されています。これはイギリスでの募集ですが、スウェーデンのものと同様です。すなわち、欧州では博士課程が給与を払って研究をする労働者として募集されていることがわかります。収入は募集先国の規定や指導教官の経済状況に左右されますが、スウェーデンでは所得税を始めとする各種税金を天引きされた後の収入が初年度で月額18万円程度、その後中間報告等をクリアする事で年々増額し、最終年度で月額26万円程度となります。







これと比較して、日本の博士課程は研究費、学費は自腹且つ給与ゼロが基本です。唯一欧州の博士課程と比較し得るのが学振特別研究員DC1及びDC2という制度での支援を受けて博士課程を修めている研究員です。これらの研究員は月額20万に加え、年間別途150万円までの研究費が交付されます。ただしDC1DC2も、学費は基本的に支払わなければならないようです。しかしこのDC1DC2は狭き門で、優秀な業績を修士の段階で持っているか、巧みな申請書作成技術かいずれかが無ければ通りません。平成17年度の博士課程修了者数は全国で約1万5千人。一方、DC1DC2の採用者数は毎年2千人未満です。すなわち、平成17年度、全国で約1万3千人以上が無給且つ学費を支払いつつ博士課程をしていました。

欧州では、博士課程の学生は資料1にあるように研究者から雇用される形で募集されるか、博士課程に該当する期間分(スウェーデンでは4年)の研究資金を自ら調達することで博士課程の研究を始めることが認められるシステムとなっています。いずれにせよ、経済基盤ありきで始まる欧州の博士課程と経済基盤無しでもなんとなく始められてしまう日本の博士課程。これがまず日瑞の博士課程を取り巻く環境の違いを生む大きな原因の一つです。

給与の有無と関連して、日本とスウェーデンの博士課程で根本的に違うのは博士課程学生の社会的立場です。日本で博士課程学生の立場が“学生”である一方、スウェーデンでは博士課程の研究者は“労働者”として扱われます。それゆえ、国の法律で定められている労働者の各種権利;健康保険制度、有給休暇、産休育休制度等の対象となります。これは欧州での制度上、博士課程の研究者が給与所得者でなければ始められないという制約の結果、全ての博士課程研究者がすなわち納税者でもあることの帰結でもあります。こういう事情があるので、スウェーデンで博士課程をしている学生はどんどん子供を作ります。僕と同時期に進化生物学研究センターで博士課程を始めた学生の中だけでも既に3人の女性が子供を妊娠・出産しました。

まとめ

今日は日本とスウェーデンの博士課程の違いの中で、特に経済状況の違いと社会的立場の違いに焦点を当ててリポートしました。システム上経済的基盤の整った上で課程を始める欧州と、経済的基盤が無くても望めば始められる日本。無給かつ学費を支払いながら研究も行い、それと同時に結婚や子づくり等も年齢的に視野に入ってくる日本の一般的な博士課程の過酷さは尋常ではありません。スウェーデンではそういう過酷なキャリアパスはそもそもシステム上選択肢に含まれていません。博士課程=給与所得者=納税者=各種社会保障の対象、という流れから、博士課程の研究者は本業に集中しながら、プライベートの充実も望めば達成できるでしょう。私は、日本もまず“親の経済援助で無い経済的基盤を持つこと”を博士課程開始の審査基準としてはどうかと思います。そうすれば博士課程卒業者の数は減りますが、内容は断然充実するでしょう。

次回は博士課程での教育内容についてリポートする予定にしています。

ではまた。

2014年4月15日火曜日

STAP細胞記者会見を見て〜雑感〜

みなさまご無沙汰しております。

スウェーデン留学中の坪井です。あまりにご無沙汰すぎていつしか連載企画であるはずのアフリカ調査旅行がもうほぼ丸2年前のこととなってしまっています。それでも続きはすこしづつ書いているのでいずれ完結させます(宣言)。

さて、今日は日本の世間を騒がせているというSTAP細胞の問題について、4月9日にあった小保方晴子さんの2時間半にわたる記者会見を飛ばし飛ばしですが見たのでその雑感を。責任の所在、今後の動向等に関して色々騒がれているようですが、理系大学院の教育環境を知った上でスウェーデンで高等教育を受けている私としては、お茶の間のゴシップとしてではなく、高等教育のあり方そのものが問われている重大な問題として考えさせられるやりとりがいくつもありました。そんな中で思ったことを今回のポストでは書きたいと思います。

まず、この記者会見は苛立たしかったの一言。原発事故の時の東京電力の記者会見でも感じましたが、これぞまさしく『暖簾に腕押し』。応答することの難しい質問もたくさんありましたが、記者会見全体を通して、本質的な質疑が応答された瞬間は全く一瞬も無かったと思います。言いたいことを言って、あとは謝罪するのみ。記者会見のシナリオを書いている人物(達)の思惑が東電の時と同じか、あるいは日本語という言語の質疑応答機能に重大な制約があるか、そういうことでしか説明できないように思いました。こういうところに行くことが義務の報道陣も大変ですね。質問には応答しないくせに、『君、失礼だね。所属と名前を言い賜へ。』などと言われた拍子には僕なら血管がはち切れてしまうと思います。

それはそうと、本題です。今回の騒動は日本の高等教育(*)に蔓延る極めて重要な問題を浮き彫りにしていると思います。小保方さんは記者会見中何度も『研究の進め方も自己流で…』と繰り返しました。特別彼女を弁護するつもりはありませんが、この発言は端的に、彼女が博士課程の研究を行った研究室(早稲田大学でしたか)に、学生に科学研究のイロハを指導する体制は無かったということを示しています。そして僕の経験では、これは、早稲田大学に限らず日本全国津々浦々あらゆるレベルの高等教育機関で分け隔てなく存在する状況であろうと僕は推察しています。つまり、日本の高等教育機関は、教育という名は冠しているにも関わらず教育は(ほとんど)しておらず、学生を放し飼いするか、あるいは奴隷的にこき使っているということなのです。現場を知らない人はびっくりするかもしれませんが、これが恐るべき事実なのです。

*高等教育の広義の定義は大学入学以降の全ての教育ですが、僕はこの記事では高等教育をサイエンスと直接関わりのある狭義の高等教育、修士課程(マスター)と博士課程(ドクター)と定義しています。

これは日本の大学成立の歴史、少子化による大学の経済収支の悪化のしわ寄せ等色々な難問が寄せ集まって起きている社会現象であり、大学で教えている教授の先生方が義務を果たさず甘い汁を吸っている悪代官であるということは本当に、全く、決して無いことをお忘れなきようよろしくお願いします(いや、まぁおそらく探せばそういう人も居ますがそんな人どこにだって少しは居ます)。大学職員、特に教授職というのは聞こえは良いけれど実際は恐るべき量の事務仕事に忙殺されて科学研究など遥か彼方に忘れ去るか、学生を奴隷としてこき使うか、あるいは超人的キャパシティによってそのトレードオフを乗り越えるかいずれかしかないという板挟みにあるのです。この忙殺か・搾取かあるいは石仮面で人間を超えて…の究極の選択で、多くの野心的かつ才能にあふれた研究者は搾取を選ぶのです。ピペド(ピペット奴隷)などけしからんという研究部外者の気持ちは痛いほどわかりますが、止むに止まれぬ現実という面も知っておいて頂きたいと思います

数年前、高学歴ワーキングプア(水月昭道)というタイトルの本があったことをみなさんは覚えていますか。これは、教育課程上最高の学位である博士号を取った、長い教育を受けて優秀であるはずの人材が就職できず、できたとしても金銭的に恵まれない人生を送るということを書いた本で、僕が修士1年くらいの時だったでしょうか、当時大学ではよく耳にする言葉でした。その当時は、経済的なプアという意味でなんとか止まっていた日本の高等教育に蔓延る病巣は数年を経て、サイエンスの本質に染み入ってその根本的な正当性・信頼性を犯しつつある段階に来ている。今回の事件はその恐ろしい現状を端的に示していると私は思っています。

これからサイエンスの道に進むことを(一応)目指している私は、このことを真摯に受け止めております。日本のサイエンスそのものが廃れ行くかもしれない過渡期に私はサイエンスを始めようとしているからです。あるいはもう手遅れかもしれませんが、この現状を変えるためには、私は高等教育のありかたそのものを根本的に改革するしかないと思っています。スウェーデンの高等教育システムを参考に思いつく具体的なアイデアは以下の通りです。

  • 高等教育機関は、教育機関からの給与、あるいは自ら勝ち取った競争的な給与型奨学金・財団資金のどちらかで3年程度生活できる保証が無ければば博士課程学生を採用してはいけない
  • 博士課程の学生に研究者として最低限必要なノウハウの教育をつけることを義務化する。研究者として最低限必要なノウハウとは、『科学倫理』『哲学』『著作権』『統計学』『英語科学論文の書き方』『科学論文査読法』『プレゼンテーション法』等である。
  • 博士課程は『学生』ではなく『雇用者』として扱う。『雇用者』に適応される権限を博士課程の学生は持つ代わり、雇用は進行状況により年度ごとに更新で、進行のあまりに芳しくない場合、高等教育機関は期限前に博士課程学生を解雇できる。

他にも色々ありますが、基本的にはこの3つでしょうか。これらが実現すれば、博士課程を取ったということは高等教育機関に於いて施されるカリキュラムを通過したという証明になります。そうすれば、STAP細胞のような出来事があった時に、当事者本人が責任を追求されるか、高等教育機関に責任があるか、すぐにわかります。もし教育機関が必要な教育を施していたにも関わらずある研究者が研究の倫理に反する行いをしたのであれば、それは当事者の責任です。もし、当事者に科学者として必要な教育が施されるべきところであるはずが、十分な教育がなされていない場合は、関連教育機関が義務の不履行として責任を追及されることになります。どちらの場合でも、本人あるいは教育機関はあらたな事件を起こす可能性を減らす何らかの対策を取る、ということになります。前向きな進展が期待できるのです。

ところが現状は高等教育機関が科学者を一人前に育てる義務を負っているという認識も無ければその事実も皆無なので、責任の所在のありようもありません。記者会見は暖簾に腕押し。まるで小学校のホームルームで窓ガラスを割った子供の弁明のようなていたらくになってしまうのであります。

最後に、You Tubeか何かでちらりと見た程度の低いバラエティ番組で、日本の研究が世界から評価が下がる恐れがとか云々言ってましたがそんなこと絶対にないのでご心配なく。ウプサラで僕の周りにいる研究者をはじめ、まともな人は今回の騒動はもうサイエンスとしては未発見として決着のついたことで、あとのことは研究者の興味外と正当に理解していますから。残りはもはやお茶の間を適度に賑わわせるくらいのことでしょうか。そんな程度の低いことにサイエンスが持ち出されて、サイエンスが滞って本当に情けなく、申し訳なく思いますと記者会見で泣きながら言った小保方晴子さんの言葉、彼女の真心でしょうから、皆まともに聞いてあげてはどうかと思います。日本の世間は本当に失敗に厳しい。何のための厳しさなのか。その厳しさは生産的なのか。僕には全く理解できません。

2013年6月14日金曜日

アフリカ調査旅行記その4

アフリカの社会が二層構造となっていることは、アパルトヘイトの歴史を語る必要も無く、明白である。白人と権力を持った黒人とで構成された社会と、それ以外の社会。ザンビア社会も例外ではない。この夜我々が向かったステーキレストランは、明らかに前者に属する場所であった。恰幅の良いスーツ姿の巨大な黒人男性が笑いながらワインを楽しんでいる。そんな様子に気を取られていると、大柄の白人男性が黒人のボーイに渡されたスーツを一瞥もせずにもぎ取り、私の肩にドカりとぶつかりながら満足気に出て行った。そのボーイと目が合って、私は軽く挨拶したが、返事は無く、逆に逃げるように目をそらされた。失礼な人もいるから、あまり気にしないように、そんな気持ちで向けた私の視線がこんな形で帰ってくる経験は久々のことで少々戸惑った。しかしこれこそが、外国人としてアフリカに居ると言う事なのかもしれなかった。私は心のどこかがどうしようもなくざわつくのを感じた。

その晩の食事は気持ちの良いスタートでは無かったが、提供される料理は量も質も大満足の内容であった。食事をしながら、Sebがどのような経緯でザンビアへ辿り着いたのか、という出で立ちの話から、アフリカで気をつける必要のある野生生物にどう対処すれば良いか、今回の調査がどのような目的か等を話した。この時食卓を囲んでいた7人は全て国籍の違う人たちであった。背景が違うと出てくる話題、それに対する反応、何から何まで違っていておもしろい。しかし、新しい情報が多いだけ、会話には多くのエネルギーを消費する。腹を満たすと同時に、私は長旅の疲れがどっと押し寄せて来るのを感じた。それもそのはず、ロンドンのヒースロー空港を出て以来、一日以上まともな睡眠はとっていなかった。食事を済ませ、ロッジに戻り、部屋に戻ると同時にシャワーも浴びずにベッドに飛び込んだ。こうして、慌ただしいザンビア調査旅行の一日目が終わった。



2日目は部屋の外で水浴びをする、ロッジの管理人の子供達であろう10歳前後の子供達の声で目が覚めた。私もシャワーを浴び、外へ出てみると外は太陽の燦々と照り輝く、気持ちの良い快晴であった。ロッジの向こう側ではAlex K.とSeverineが朝食の準備を始めている。コーヒーの香ばしい香りと焼きたてのパンの香りが鼻に届く。世の中には、「幸せとは何か」をテーマとした分厚い本が沢山出版されている。しかし、幸せとは思いのほか単純な、例えばこの日の朝に私が感じた、気持ちの良い天気に料理の良い香り、そういうところにあるのではないかと思わせるような、心地の良いの瞬間がそこにはあった。


Alex K.は、オーストリア出身のポスドク。父親も著名な魚の研究者であった生え抜きの研究者である。Alex K.はドクター時代にタンガニイカ湖のシクリッドの一種を材料にしており、今回の調査旅行は、彼のザンビアにおける豊富な経験とネットワークを頼りに計画が始まった。彼のパートナーSeverinはスイス人の博士課程学生。可愛らしいドイツ語訛りの英語を話す、おしとやかでとてもチャーミングな女性だ。彼らはAlex K.がドクター時代に企画した調査旅行において、研究者とその研究アシスタントとして出会ったという。今回の調査旅行も、研究はもちろんであるが、その機会を利用してのエキゾチックな休暇という側面も兼ねていた。こういうどこか「浮ついた」研究風景は、日本人としてはどこか憚られる気持ちになるものだが、ヨーロッパでは全くもって普通のことであって、フィールドシーズンの色恋沙汰に関するゴシップというのは誰もが必ず一つや二つは大爆笑確定級のネタを持つ、飲み会の席で最も盛り上がる話題の一つだ。

おいしい朝食の席を囲みながら、Alex K.とSeverine、そして同じロッジに宿泊しているスウェーデン人のドクターで今回の研究アシスタントJosefinaの間で何でも無い会話に花が咲いた。フィールドシーズンの成功というのは、その時のメンバー間の相性に大きく依存する。この日の朝の会話の弾み具合から、今回のチームはうまく行きそうな予感がした。最後に、その日の買い物に関する計画を改めて確認し、部屋に戻って支度をする。一行は呼んでいたタクシーに飛び乗り、二日目の買い物が始まった。

2013年6月9日日曜日

アフリカ調査旅行記その3

ルサカ市内中心部にあるショッピングモールへ到着した一行はまず携帯電話を購入しに、ザンビアの大手通信会社、Airtelの販売ブースに入った。思った通りプリペイドの携帯とそのSIMカードは広く流通しており、旅行者であるという事情を説明するまでもなく、二つ返事で望みの品を購入する事が出来た。SIMカードを携帯に挿し、Airtelの電波を受信している事を確認した後、電話を掛け合う。電話は問題無くかかり、携帯探しは早くも終了した。

続いては、エタノールとホルマリン。調査隊はエタノール組とホルマリン組の二手に分かれた。私は今のところ手がかり無しのホルマリンのグループへ。ザンビア渡航前に連絡を入れていた薬品店では、取り扱っていないということであったが、なにせ片言の*1英語を使っての電話越しの対応である。電話での対応の雰囲気からも、その場しのぎの答えをしたことも十分にありそうであることが感じ取られていた。なにより、そこを除いて他に手がかりは本当に何一つなかった。我々は、その薬品店の住所と地図をタクシーのドライバーに見せ、薬品店を目指した。

薬品店は、街のはずれ、カイロ通りに続く小道にあった。大きな鉄製の門は、一見したところ、大きな工場の入り口のようだ。門にはLusaka Chemist Ltd.と書いてある。ここで間違いない。タクシーのクラクションをならすと、門扉が開く。門番の男は2、3、タクシーの運転手に無愛想な態度で質問をし、頷いた後に車を中へ通した。ところで、ザンビアは旧宗主国が英国であり、同じく英国の植民地だったインドからの移民が多い。街の至る所にインドの地名にちなんだ通りの名前があるのには、そういう訳がある。

門の中へ入るとすぐに駐車場、そしてオフィスへの入り口が見えた。その向こうにはやはり大きな工場らしき物が見えた。おそらくそこで薬品を作っているのだろうか。オフィスへ入ると黒人男性が出迎えた。私は手短に事情を説明して、ホルマリンが無いか訪ねた。やはり電話で聞いたときと同じ対応で、無いの一点張りであった。ホルマリンが手に入りそうな場所はあるかと聞いてみると、わからないが、他の薬品店ならあるかもしれないということで彼の知っている薬品店の場所を教えてもらった。こんな風に書くと物事はとてもスムーズに行ったかのように思えるが、実際は全く違った。会話の合間に仲間同士の掛け合いや、電話の対応、パソコンのチェックなどありとあらゆる間の手が入った。茹だるような暑さと埃っぽい空気にそもそも頭の働かない中、答えを急がず、気長に質問を繰り返すのは本当に骨が折れた。もう日は暮れかかっていた。



二手に分かれた一行は再び合流した。エタノール組は、エタノールを扱う薬品店を見つけたが、正規料金で売るには紹介が居る。割高料金であれば売ってやるということで、割高料金も払えないではなかったが、ひとまず引き上げたということであった。いつだったか、政治における汚職の度合いの世界ランクを見たが、アフリカの国は軒並み下位に低迷していた。そういう事情はおそらく政治に限らず、ザンビアではごく普通のことなのだろうか。そうして一日目の買い物は終わった。一行は、ホルマリンはおろか、簡単に手に入ると踏んでいたエタノールも手に入れることができなかった。日の傾いたルサカの街は通勤であろうか、行き交う車が目立った。その光景は、子供の頃から心の中で描いてきたアフリカの像とはかけ離れた、身近な通勤ラッシュだった。背景には、ザンビアの埃っぽい空気で霞んだ夕陽が見えた。生まれて初めて見た、アフリカの夕陽であった。

ロッジに帰って来た一行は、明くる日の計画、そして調査地であるザンビア北端に位置する漁村、ムプルングへ向かう日程について話合った後、Alex H.の旧友、Sebお気に入りのステーキレストランへ向かうこととなった。腹ぺこの一行はSebの運転する車に乗り、レストランへ向かった。



*1
ザンビアは旧宗主国がイギリスなので、公用語は英語である。しかし、現地のアフリカ人は外国人を相手とする場合を除き、基本的に現地語を使う。公的には、英語はザンビア人にとって英語は母国語であるはずだが、実際のところは彼らの英語は片言に近い。

2013年2月13日水曜日

アフリカ調査旅行記その2


10時間のフライトを終え、飛行機はザンビアの首都ルサカに到着した。現地時間午前7時。天気は晴れ。8月下旬のザンビアはちょうど乾期の終わり。ルサカの空気はほこりっぽかった。入国審査は滞り無く数分で終わった。手続きは驚く程近代化していて、調査チームは全員指紋を採られた。ザンビアに数回、今回のような研究調査で来た経験のあるAlex Kotrschalによると、2007年に来たときは、指紋採取はおろか、入国審査場と手荷物受け渡し場を仕切る壁すら無く、そこには木製の机が数個あり、入国審査をしていたという。ザンビアは急速に成長しているのだ。

手荷物を受け取り、到着ゲートへ。そこには、今回の調査チームの一人Alex Haywardの旧友Sebと、俺の研究室のポスドクで今回の旅行の大部分を手配したAlex K.の知人、Simonの二人が待っていた。Sebは数十年前にイギリスから荷物一つでザンビアに渡り、ゼロから農場を始めて現地での生活を築き、今はザンビアに帰化しているという変わり物である。出で立ちも、少なく見積もっても5つは穴があいているTシャツに鼻緒が千切れかけたサンダル。皺の間まで日焼けした褐色の肌に髪の毛はイカツいドレッドヘアーと、紛う事なきヒッピースタイルであった。Simonは小柄の黒人で、これから俺らが滞在する事になる宿泊施設で雇われているドライバー。二人の出迎え人と挨拶を交わし、一行は車へ向かった。


車は空港を出て、市街地へ向かった。道中から見える景色は荒涼としていた。雨期には、この木々に豊かな緑の葉が付くという。四季を持つ国々の人は、春夏秋冬、季節の巡りに合わせて一年を生きる。雨期乾期によって一年を定義付けられるこの国の人は、日本人が四季折々の移り変わりに合わせて喜怒哀楽を表現するように、雨期と乾期に特有の感情表現があるのだろうか。



カメラのシャッターを切りながらそんなことを考える中、一行は市街地を目指したが、その足取りは遅々としたものであった。ドライバーのSimonは非常に注意深い人物であった。交差点に差し掛かるたび、向こう数百メートルから車が来ていない事を数回確認してから、ようやく曲がった。何度か確認している間に車が近づき(それでも俺の感覚からすれば余裕で行けるタイミング)、左折を諦めることもしばしばあった。そんな訳で、車は左折の交差点のある度、数分の足止めを食らっていた。ある時、Simonの過度な安全確認にしびれを切らしたAlex K.が、次に来る車まで距離が出来た時に「ヘイSimon、今なら行けるぜ!」と言った。Alex K.のオーストリア訛の英語を上手く聞き取れなかったSimonは、「え、なんだって?」と聞き返した。一行はさらに数分、その交差点で時間を食うはめになった。一行はだまった。



宿泊施設に到着し、荷物の中身を確認してから、飛行機での睡眠不足で眠気が襲っていた調査隊は昼まで仮眠を取る事になった。しかし、あまり眠くなかった俺は宿泊施設のマネージャーである中年のドイツ人夫婦と受付の部屋で会話をした。この宿泊施設はGossner Missionと言いMissionの名前から推測されるよう、キリスト教使節団の宿として建設された施設であった。現在は宣教師より、現地でボランティア活動に従事する人や、俺らのような研究者の滞在場所として使われているらしい。彼らも宣教目的なのかと訪ねると、最初はそうだったが今では違う。アフリカに必要なのは神ではなく食べ物、20年間アフリカに居てそれがわかった。そう答えた彼らの目には深い悲しみと太い強さが共存したような、不思議な色の光が宿っていた。アフリカの雄大で力強い自然、その美しさに心から感動したというストーリーには心が躍った。ザンビアが雨期に入り、その年初めての雨が降った時、地面から猛スピードで草が生え、数時間のうちに荒れ地だった一面が緑に覆われるという。その光景を初めて見たときの感動はずっと忘れられない。あなたもいつか、その瞬間を見れると良いわね。そういう話を聞きながら俺は、サバンナにゆっくり沈む赤い夕陽を見ながら、ただ心を真っ白にするような、そんな静寂の一時が人生の片隅にあったら、さぞ豊かな心になれるやろうな、と思った。宣教師としてアフリカに来たということは敬虔なクリスチャンやったに違いない。その彼らが信仰の限界を感じてなお前向きに、力強く歩いて行けるのはアフリカの雄大な自然に触れたからなのかもしれない。



ルサカでの滞在は3日間の予定。それから、ザンビア北端の街、ムプルングに向かう18時間のバスに乗る。ザンビアで2番目に小さな街ムプルングで手に入るものは限られているから、3日間は買い物をする計画であった。仮眠を済ませた一行は、近所のレストランで昼食を取った後に、タクシーを呼んで街の中心部へと向かった。

ルサカで揃えなければならない物は主に3つあった。携帯電話、エタノール、そしてホルマリンである。携帯電話は何の問題も無い。ザンビアも入国審査に指紋採取があるくらいには発展している。特に、携帯電話は先進国での流通にかかった時間とは比べ物にならないくらいの速度でアフリカを含む発展途上国で流通した事で有名だ。都心部のショッピングモールに行けば安々と手に入る事が明らかであった。エタノールは消毒用に使われるものなので薬局で手に入る。問題はホルマリンであった。事前情報によると、ルサカ市内のある薬品店で買えるということであったが、スウェーデンから電話をかけて問い合わせてみると、「それは取り扱っておりません」の一点張りであった。最悪現地でホルマリンが手に入らなかった場合のために、粉末のパラホルムアルデヒドを持ち、現地で作る準備もしていたが、これは出来ればやりたくなかった。パラホルムアルデヒドは粉末状のホルムアルデヒド(ホルマリンは37%ホルムアルデヒドの通称)であるが、難容性で水質をアルカリ性にしてやらないと溶けない。そこで水質を水酸化ナトリウムでアルカリ性にして、撹拌しながら加熱して溶かす。phを計測する試験紙も準備していたので、この方法を使って、最悪の場合でもホルマリンを“調理”する準備はできていたのである。しかし、アルカリ性にした溶液では保存した組織が痛んでしまうので水質を中性に戻してやらないといけない。この最後のステップに必要な強酸の水溶液を作る薬品で、空輸送可能な薬品が見つからなかったため、ホルマリンを調理する場合は現地でレモンか酢酸を調達してphの調整をすることにしていた。しかし、弱酸のレモンや酢酸をどのくらい加えれば溶液が中性になるのか、事前に調べる時間が無いままザンビアに来てしまっていた。そんな不安要素を抱えた作戦にサンプルの運命を委ねるのは絶対にごめんであった。そう言う訳で、ホルマリンを探す2日に渡る死闘が始まったのであった。